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性教育@はらっぱプレーパーク

更新日:2021年7月19日

6月16日、はらっぱ駒沢プレーパークで助産師のもりたもえさんをお迎えし、性教育講座【子どもにかかわる大人が身につけておきたい性の知識と、みんなで考える「こんなときどうする?」】を開催しました。

これまでIBASHOでは、「子どもが性に関する正しい知識を持ち、自分で考え行動し、自他を尊重しながら社会の中で自分の性と生を謳歌できること」を目標とし、家庭内で親が子どもに行う性教育をテーマにしたワークショップおよび自主勉強会を行ってきました。


ところが、ワークショップの参加者から「プレーパークで子どもに関わる中でも、性に関する子どもたちの言動への対応に悩むことがある」との声があがりました。これは、みんなで一緒に考えたい問題!


そこで、今回は「子どもを見守る地域の大人」を対象に、最低限身につけておきたい性教育の知識を学ぶとともに「こんなときどうする?」という実例をもとにディスカッションを行いました。


雨の中、プレーワーカーや世話人、プレーパークに集まる子どもの保護者が集まりました。まずはもりたさんからベーシックな性教育のお話を聞いた後は、はらっぱでおこる

「こんなときどうする?」をテーマにしたグループディスカッション。


「子どもが楽しんでいるなら、カンチョーってOK?」

「水遊び後の着替え、どこまで意識して隠すべき?」

「子ども同士、大人と子どものスキンシップをどう捉える?」

等をテーマに話し合いました。


この話し合いでは、今までの「親から子への性教育」の時にはなかった熱い議論が巻き起こります。。。。


「お互いに合意があって、楽しんでいてもカンチョーは絶対にダメ!!なの?」

「身体が触れ合う遊びやスキンシップ。関係性の中で成り立っているものもある。一概に大人が禁止してしまうのはどうなの?」

「大人が先回りして子どもが失敗から学ぶ機会を奪うことにならないか?」

・・・・・。


プレーパークという遊びを通して子どもが自分で気づき、考える場所。また子どもと大人、さまざまな人たちの関係性の中で成り立つ場において、大人が一方的な価値観で介入し、子供の行動を管理することがあってはいけないという強い思いが参加者の中にあるからこその議論でした。この議論に結論はなく、これからも【こんな時どうする?】【これでいいのかな?】と感じるたびに立ち止まり、仲間を共有しながらどうすればいいのかを考えていく必要があることを、参加者同士で確認しました。


 

最後に、講師のもりたもえさんから講義を終えてのメッセージです。

 

はらっぱのみなさんへ。本日はありがとうございました。

『家庭は安心して、寝起きできる場、地域は子どもたちの遊ぶ元気な声を聞ける場にしたい。

野山や路地裏の暮らしや自然は、子育てを支えてくれることにも思いいたりたい。

知らず知らず、いま大人たちは、子どもが子どもでいられる空間や時間をますます狭く、窮屈にしてしまっているからだ。

そこには「安全」「保護」「指導」という「配慮」がある。

でもこの「配慮」が続けば、子どもは死に体となって、「生きる意欲」と「生きる意味」をどんどん減じていってしまうことになるだろう。』

私が最近ハマっている《お・は編集人》小学校教員 岡崎勝さんの言葉です。

これを読んだ時、まず、はらっぱが思い浮かびました。

皆さんの議論や、子どもの「育ち」に対する熱い思いや願いに触れ、子どもの「自由」や「自立」「遊び」の大切さについて皆さんから学ばせていただきました。


社会の中でじわりじわりと、子どもの「自由」や「遊び」が、「管理」されるようになり、友達との関係性の中のびのびと成長する機会が減り、その子らしい「個性」が失われていっている。

そのことに対する危機感や、何とかその子どもたちの「自由」や「遊び」を守るための「場」を作る、守る、続けることに対する皆さんの熱意が、あの場の熱い議論を産んだのだと思います。


これは、「家庭の中での性教育」「親と子という関係性の中で伝える性教育」について保護者のみなさんに講座をしてきた時には起こらなかった議論です。

また助産師同士や性教育関係の仲間の中で議論する時にもあまり話題には上らない部分です。

今日のグループワークやシェアでは、友達との「関係性」がある「遊び」の中で起こる「お互いの同意がある」性についての言動を禁止することが、「大人が」「子ども自由な成長」を管理してしまうことにならないのかこれが大きなテーマになっていたのかな、と思います。

「大人が管理する、禁止する」というのは、はらっぱの理念から大きく外れていることですね。

・子どもは「失敗体験」や「成功体験」を通じて、何が良くて何が悪いのか、学んでいく

・あらかじめ「禁止」することで、異性と関係性を結ぶ年代になったとき、手も足も出なくなるのは。

・「草食男子が心配」

議論の中でみなさんから出て、私が印象的だった言葉の一部です。

確かに私も保護者の一人として、その通りだと思う気持ちもあります。


一方で「性」に関しては、たった一度の「失敗」が取り返しのつかないほどの、心の傷を負う人がいるということを助産師として、皆さんにお伝えしておかなければなりません。

そして、そのことを子ども自身、親自身、大人が自覚していなければ、

「無意識」に加害者にも「被害者」にもなり得るのです。

幼児であれ、学童であれ「加害」「被害」の関係になり得ます。

遊びの一環だった、そんなつもりじゃなかった、親しみを込めて、ただふざけていただけだった。これは言い訳にすぎません。

ふざけて言われた言葉、態度の中に、思い出すとチクチクとうずく、心の中に抜けないトゲのように残っているものはありませんか?

「性」においては、その当初は理解できなくても、後年記憶をたどって、自分がしたこと、されたこと、言われたこと、感じていた違和感の意味を初めて理解したときに、傷つくこともあります。

自分がとれていると思っている「同意」は本当の意味での「お互いの同意」なのか。

同意しているか、していないか、判断するためのためのセンサーは発達しているのか。

自分自身の身体についての「快」「不快」を判断するセンサーは発達しているのか。

自分自身、そして他者の身体と人格を当たり前に尊重できる感覚を、私たち大人が態度で、言動で示していくことも大切な大人の役割である、性教育に関わる者としての思いです。

その思いを持ちつつ、子どもの自由な遊び、発達を尊重しつつ、子どもの性について考えていきたいな、と思いました。

貴重な学びの機会をどうもありがとうございました!

助産師もりたもえ



 

もりたさん、ありがとうございました!


講師もりたもえさんのブログはこちら



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